【佐々木宏の論評】

これは近代建築の研究者佐々木宏氏が各種媒体に発表した評論を随時掲載するものである。

2本脚のパイプ椅子―その創案者は?
コルビュジエの「書簡選集」の刊行

建築家・吉田鉄郎の『日本の住宅』
メキシコの建築家ルイス・バラガン
コンクリート打ちの名人・森丘四郎
建築ジャーナリズムにおける筆名


 2本脚のパイプ椅子
その創案者をめぐって

 2本脚の椅子―自立するだけでなく、腰掛ける人間を前の2本脚だけで支える椅子の出現は、家具デザインの革命であった。
 それは20世紀前半における、多くの建築家の挑戦の中から誕生した。
 ベルラーヘやF.L.ライトは別格として、21世紀になっても製品として販売されて、愛好家の絶えない建築家の作品はかなり多い。マッキントッシュ、リートフェルト、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デア・ローエ、マルト・スタム、マルセル・ブロイヤー、アルヴァ・アアルト、アルネ・ヤコブセン、そしてエーロ・サーリネンとチャールズ・イームズも加えられよう。
  2002年はブロイヤーの生誕100年ということで、それにちなんで家具の作品集が刊行され、日本でも記念家具展が開催された。
  ブロイヤーの椅子デザインは、1920年代初期のリートフェルトの「赤と青の椅子」の影響から出発している。自転車のハンドルをヒントにした安楽椅子「ワシリー」は25年の作である。
  細いスチール・パイプという弾力性のある素材に、多くのデザイナーや建築家が注目し、新しいデザインを試みる動向が広まった。
  バウハウスのあるデッサウ市には、航空機メーカーで世界的に有名なユンカース社の工場があった。山脇巌の教示によれば、パイプ椅子の曲げ加工の技術などは、そこの協力によるものであった。
  こうした背景があって、ブロイヤーは次々とスチール・パイプを用いた新しいデザインの椅子やテーブルを考案した。28年には前脚が2本のスチール・パイプの弾力性を最大限に活用した重力に抵抗するようなデザインの画期的な椅子を発表した。これはメディアによって世界中に伝えられ、注目されて絶賛され、バウハウスの工業デザインの象徴ともみなされた。
  椅子におけるコンセプションの革命であり、見事な造形でもあったからである。29年には、曲げ木椅子のメーカーとして著名なトーネット社から製造・販売されることになった。
  これを知ったオランダの建築家のマルト・スタムは、特許権侵害でブロイヤーを告訴した。2本脚の片持パイプ椅子を最初に考案したのはスタム自身であるという理由からである。
  彼は、27年のシュトゥットガルトのヴァイセンホフ・ジードルングの住宅展に参加し、3層3戸連続住宅を建て、その中に2本脚のスチール・パイプの椅子の試作品を展示したのである。着想は前年の26年だったらしい。
  明らかにスタムはブロイヤーよりも早く、新しい椅子のコンセプションを達成していたのであった。
  ブロイヤーは敗訴した。それ以後、スチールパイプの家具は手がけなかった。
  ブロイヤー贔屓(ひいき)の評論家や解説者は、スタムの椅子はガス管を溶接して継ぎ合わせたもの、と技術的な劣性を強調している。それは試作品のことであって、21世紀の製品は、見事に洗練された曲げ加工になっている。
  66年のアムステルダム市立美術館で開かれた大規模な世界の椅子の展覧会では、スタムとプロイヤーの椅子を特別 に並べて陳列し、自国の建築家の創案を誇示していたのを思い出す。
  同じコンセプションであるが前脚を半円形に湾曲させた椅子をミースが27年に発表した。彼はヴァイセンホフ・ジードルングの統括者だったので、スタムのスケッチを見ていたことが知られている。
  以上のような事実にもかかわらず、このタイプの椅子をブロイヤーの創案と誤解している人が現在でもかなり多いのである。

左.ミース・ファン・デア・ローエの椅子(1927年)
中.マルセル・ブロイヤーの椅子(1928〜29年)
右.マルト・スタムの椅子(1926〜27年)
(附記:これら3人の建築家の椅子は、国内の輸入家具店で陳列、販売されている)
(2002年9月13日、日刊建設工業新聞)
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2002.6.21

 

コルビュジエ研究の新たなアプローチ
待望の「書簡選集」の刊行

 スイスの建築史家・評論家のシュタニスラウス・フォン・モースは、ル・コルビュジエの評伝の中で、細い柱と床版の構成で建築の革命的着想を提示した「ドミノ」方式について興味深い問題を指摘している。それはトニー・ガルニエの計画と関連があり、どのようにしてそれと著作の『工業都市』の研究を知ったのだろうかというのである。
 巨匠ル・コルビュジエの業績で、ガルニエの影響を解明することは重要課題の一つである。
 最近ル・コルビュジエがガルニエに宛た手紙が公表され、フォン・モースの疑問の一部が明らかになった。1919年5月の手紙である。1908年にリヨンでガルニエを訪れて知己だったためか、冒頭で『工業都市』を初めて読んだばかりと記し、続いてそれについての感想を述べている。
 このガルニエ宛の手紙は、今年2002年に刊行された『ル・コルビュジエ書簡選集』の中に入っている。この本は186名宛の329通 の手紙を収録し、意外に数少ないのは、編者が重要性を判断して選択したからである。
 師匠のオーギュスト・ペレ宛の7通の中で最初の手紙は、アトリエ入所の許諾の喜びを書き送ったもので、その日付の1908年4月15日は、歴史的意義をもつといえよう。
 アドルフ・ロース宛は、「装飾と罪悪」の論文を『レスプリ・ヌーヴォー』誌に転載させてもらった礼状である(20年7月)  フレシネ宛は、オルリー格納庫の図版を『建築をめざして』の中で使用した報告の礼状である(23年10月)。
 他の建築家への手紙としては、グロピウス、マレ=ステヴァン、ネルヴィ、ニーマイヤー、ボードワン、セルト、ロジャース、ペリアンなどに宛たものや、日本の坂倉準三と丹下健三に宛たものが含まれている。
 評論家や編集者宛は、ギーディオン、アンドレ・ブロック、マックス・ビル、スタモ・パパダキ、ジャン・プティ、モーリス・ベッセ、ミシェル・ラゴンなどで、写 真家のルシアン・エルヴェへの手紙も加えられている。
 画家宛は、ピカソ(4通)、マチス、レジエ、シャガール、ミロなどへの手紙である。
 作曲家では、フィリップス館の「電子詩曲」のヴァレーズ(3通)とメシアンへの手紙、後者の追記では共通 の弟子のクセナキスに言及している。
 政治家では、インドのネルー首相へのチャンディガールの件での手紙、アンドレ・マルローへは11通 と多く、58年最初の手紙でフィリップス館のことを伝えている。
 適宜な参考図版で印象深いのは、病床の父の表情と2ヶ月後の死顔の2葉の素描である。それに続いて、婚約者のイヴォンヌへの訃報が載っている。長い間の同志だった従兄弟のピエール・ジャンヌレへの手紙では、妻の死を伝えている。
 この『書簡選集』が「ル・コルビュジエ学」の新たな進展に役立つのは言うまでもないが、特に貴重なのは初期の手紙である。
 両親、兄のアルベール、工芸学校の教師のレプラトニエ、思想的に多くの教示を受けたウィリアム・リッターなどへの手紙が数多く収録されている。これまで詳細が不明だったペレやベーレンスの許での様子が、それらの中で発見される。
 従来の評伝のほとんどは加筆や改訂の必要を迫られるであろう。
 選者のジャン・ジェンジエはフランスの美術文化行政の権威の一人で、オルセー美術館の設立に関与し、著作の『ル・コルビュジエ―感動の建築』(93年刊)は小冊子ながら豊富な図版の併用が好評で、英語版、イタリア語版も刊行されている。
1. [Le Corbusier---larchitecture pour emouvoir] Jean Jenger, de couvertes gallimard architecture, 1993
2. [Le Corbusiee Choix de lettres] selection, introduction et notes par Jean Jenger, Birkh a user -- Editions d'Architecture, 2002
(日刊建設工業新聞2002年6月21日) もどる


2002.7.20

67年後に刊行された名著の日本語版
建築家・吉田鉄郎の『日本の住宅』

  建築家・吉田鉄郎(1894〜1956)は日本の近代建築の旗手の一人であった。逓信省時代の東京と大阪の中央郵便局の代表作のほかに数多くの作品があり、その他に注目すべきいくつかの著作を残した。
  とくにドイツ語で執筆した『日本の住宅』(35年)、『日本の建築』(52年)、『日本の庭園』(57年)の三部作は、日本文化を外国人に伝える貴重なものとして高く評価されてきた。『日本の住宅』は刊行以来のベストセラーであった。
  日本人自身による日本文化の啓蒙書として、新渡戸稲造の『武士道―日本の魂』、岡倉天心の『茶の本』に比肩できるものとみなされている。
  しかし多くの日本人にとっては長い間、その内容を知ることができなかった。ようやく2002年6月にその日本語版が刊行されその不都合が解消された。なんと半世紀以上も過ぎた67年後なのである。(1953年に日本建築学会賞を授与された『日本の建築』でさえ、日本語版は20年後の72〜73年の2分冊の刊行であった)。
  日本語版の刊行がなかなか実現しなかったのは、吉田自身が日本語に移すことに消極的だったからと伝えられている。
  『日本の住宅』の刊行と前後して、日本の建築文化について数多い著作を発表したドイツの建築家ブルーノ・タウトの研究や考察に、吉田鉄郎の助力があったことは知られていた。
  内田祥哉氏は「多少の極言が許されるならば、国内ではタウトという外人を通じて日本人に日本の建築の美しさを教え、海外では自らの筆で、同じ主張を述べたのであった」と指摘している(『建築家・吉田鉄郎の手紙』向井覚・内田祥哉編、69年)。
  おそらくこのことが、日本語版の刊行に吉田が応諾しなかった最大の理由であろう。
  吉田は「はじめに」のなかでドイツの建築家たちが日本の住宅建築に大きな関心を持っていたことに驚いたと記している。 吉田の帰国後の33年に刊行されたG・A・プラッツ(本紙01年10月5日付参照)の『現代の住居空間』のなかに、堀口捨巳、土浦亀城、柘植芳男、藤井厚二などの住宅作品が載ったのはその反映であろう。資料提供は小池新二であった。
  『日本の住宅』の出版を勧めてくれたのは「フーゴー・へーリンクとルードヴィッヒ・ヒルバースアイマーの両氏」であると言及しているが、これは20世紀建築の興味深いエピソードである。おそらくヴァスムート社に引き合わせたのも彼らに違いない。10年にF.L.ライトの『作品図面 集』を刊行して、世界の建築界に大きな影響を及ぼした一流の出版社である。
 吉田がドイツ語に堪能だったのは、デッサウのバウハウスを訪問した時に、日本建築について講演をしたことが物語っている。
 この本の歴史的考察は、吉田の思想や建築観が盛られていて興味深いが、その後の研究成果 と照合すると内容の上で今日では適切でない部分も含まれている。
 むしろ、この本でもっともユニークなのは、吉田の試案による35年当時の日本の住宅の15例の平面 図集である。技術的な詳細資料も、歴史家ではなく建築家ならではの主張の表れであろう。(巻末の木割による断面 寸法のリストが、部下で協力者だった沢寅吉の作成によることが後に明らかにされた。前掲書、194頁)
 今回の日本語版が、54年の改訂版ではなく35年の初版にもとづいていることの意義は大きい。それは国際的に広く知られた吉田鉄郎の名著だからである。
●吉田鉄郎著、近江栄監修、向井覚・大川三雄・田所辰之助共訳『日本の住宅』は鹿島出版会(電話03・5561・2550)、定価2400円十税。 (2002年7月20日 日刊建設工業新聞)  もどる


2002.5.31

ルイス・バラガン生誕100年記念展に寄せて
自己演出でも巧妙だったメキシコの建築家

 メキシコ建築といえば、戦後まもなく伝えられた動向のなかのいくつかの作品が印象深い。
巨大な壁画のあるメキシコ大学(オゴールマンなどの設計)、ル・コルビュジエの「輝く都市」の実現とみなされた高層住宅群(マリオ・パニ設計)、コンクリートシェル構造の華麗な造形(キャンデラ設計)、そして5本の塔で構成されたサテライト・タワー(ルイス・バラガン他のデザイン)である。
 このタワーは、メキシコを代表する作品として、80年代のケネス・フランプトンやヴィットリオ・M・ランプニャーニの近代建築史に図版が載っている。
 その設計者、ルイス・バラガンの生誕100年記念展が東京で開かれている。初期から晩年までのほぼ全貌(ぜんぼう)を伝える展示である。
 バラガンは1902年、メキシコ中西部のハリスコ州の州都グアダラハラで地主階級の家に生まれ、88年に亡くなっている。時代的に典型的な20世紀の建築家であった。
 地元の自由工科大学でエンジニアの学位を受け、さらに1年の課程を修得すると建築家の資格が与えられることになっていたが、進学せずに25年から27年にかけてヨーロッパ各地を旅行した。建築家となる決心をしたのは帰国後のことである。
 25年のパリの万国装飾美術博を見学したが、ル・コルビュジエ、キースラー、メルニコフなどの新しいデザインに興味がなく、むしろ反発を感じたらしい。
 メキシコでは20年代にヨーロッパのインターナショナル・スタイル風のデザインが現れていて、バラガンもそのような傾向で出発した。
 31年に再び外遊し、ニューヨークでキースラー、パリでル・コルビュジエと知り合いになり、大きな影響を受けた。彼は生涯を通 じて、インターナショナル・スタイルを基本とした希有な建築家だった。
 バラガンは、メキシコを代表する指導的建築家で5歳年下のフアン・オゴールマンのように、民族的デザインや夢幻風で彫塑的デザインに転ずることはなかった。伝統的なゴシックやバロックの様式を意識したこともなかった。
 自分のデザインのなかに取り入れたのは、むしろ風土的条件であった。無装飾で立方体的造形を基本としながら、中庭や池を加えた空間構成を試みるようになったのは、風土的デザインをめざしたからであり、そのコンセプトの根源はアルハンブラ宮殿のようなイスラム的手法であった。
 壁面に大胆な色彩を塗ったデザインのアプローチも、必ずしも独創的なものではない。バラガンの広範囲にわたる学習の成果 として、近代建築運動のなかのブルーノ・タウトの色彩宣言などに触発された再構成とみなされよう。
 彼は20世紀の巨匠たちの作品に通暁していたが、自己表現の上では、色彩以外は抑制したデザインを追及していた。新しい材料や構法にもあまり関心がなかったかのような印象を与えている。
 建築家としてバラガンがユニークなのは、早くからル・コルビュジエや、知己でもあったノイトラの影響で建築写 真を重視したことである。それによる自己顕示の演出方法として、国際的な先進国の建築ジャーナリズムに登場することを目標とした。31年からアメリカの建築雑誌『アーキテクチュアル・レコード』に作品写 真を送り続けていたことが知られている。
 彼の建築は写真効果を狙ってデザインされたのではないかとさえいわれている。それらの特徴は、画家のデ・キリコの作品の情景を模したものが少なくなく、表現の類似性も指摘されている。バラガン自身は、シュールレアリスムや抽象芸術に関心が深く、建築写 真を抽象絵画の表現のように指示したらしい。
 建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞が80年に与えられたとき、シーザー・ペリは、審査員がほとんどバラガンの作品を写 真だけで知って判断した、と述べたらしい。バラガンの作品は、他の建築家よりも建築写 真家を魅了して惹きつけたのである。彼の作品に対して「沈黙と孤高」という修辞が用いられ、彼自身も語っている。しかし、それらはあでも実際の建築ではなく、写 真表現の上だけではないか、と論評されている。
 彼のデザインは、空間構成や色彩効果の点で写真によって美しく伝えられるが、それ故に舞台背景画的手法であるとみなされてきた。今回の展示を見て、そのような印象を強く受けたことは確かである。今回の展覧会では、バラガンに親近感をもって高く評価している安藤忠雄氏が、いくつかの作品を訪れて分析や感想を語っている映像も公開され、会場の展示は安藤氏とそのスタッフによって構成されている(「ルイス・バラガン 静かなる革命展」は東京都現代美術館で2002年4月20日から7月14日まで開催)
(2002年5月31日 日刊建設工業新聞) もどる


2001.5.23

隠れたコンクリート打の名人

オーキュスト・ペレの弟子の森丘四郎

 オーキュスト・ペレといえば鉄筋コンクリート建築の偉大な先駆者として、20世紀の建築史の上で重要な位 置を占めていて、その技術ではル・コルビュジエの師匠でもあった。

 そのペレの弟子が日本にもいて、コンクリート打設の隠れた名人だった。それは森丘四郎といい、現場監理者として一緒に国立西洋美術館を実現させた藤木忠善氏は、「コルビュジエの作品を日本で初めて作るのに最もふさわしい現場主任さんであった」と語っている。

 藤木氏によると前川国男は自分の作品の中で清水建設が請け負った仕事は、現場主任として森丘を指名したという。

 森丘は国立西洋美術館の完成後、次のように感想を記している。

 「ル・コルビュジエ氏の素朴な設計―美術品を展示する素朴な箱といった感じのする美術館を、どんな感じに仕上げたらよいのだろうか、私の頭に浮かんだのは粗野で荒々しい中世紀のヨーロッパの田舎に見られたシャトウであった。
  しかし、小手先の器用すぎる私たちがそんな仕事をしても、出来上る建物が感覚の乏しい偽りの多い建物になるだろうということが懸念され、設計者の意志に反するとしてもせめてこの質素な木綿の着物を着た淑女に、几帳面 (きちょうめん)な身だしなみと多少の品位を与えることが出来ないものか。これが、この美術館の図面 を見て私が考え、施工しようとした方針であった。」

 この美しい文章が現場の担当者によって書かれたというのは貴重である。施工する建物についての深い洞察と熱意と愛情の溢れる表現はすぐれている。国立西洋美術館は、このような技術者によって建設されたのであった。

 森丘の経歴はユニークである。出身地は富山県下新川部大布施村(現在は黒部市)、生年は明治39(1906)年1月4日。大正12(1923)年4月、富山県立魚津中学校4年終了後、留学のため退学、大正13年5月渡仏、同年9月建築研究のためリヨン美術学校入学、大正14年10月パリのアカデミー・ジュリアンに入る。昭和2(27)年7月、父の病気のため帰国。昭和3年1月再び渡仏、3月にオーギュスト・ペレの「アトリエ」に入り、昭和5年5月まで研究、6月に帰国した。昭和8年6月清水組に入社、設計部に勤務、昭和14年2月北支支店天津出張所設計係勤務、昭和15年3月以降現業勤務となり、昭和39(84)年に定年、嘱託勤務となった。没年は平成4(92)年1月15日、享年86歳であった。

 森丘は日本の学校で建築教育を受けず、もっぱらフランスで勉学したという日本人としては異例の経歴の持ち主だった。
  前川国男との関係は2人ともに亡くなっているので確証は得られていないが、2度目のフランス留学の時期が、前川のフランス滞在と重なっているので、そのころパリで知り合ったものと推測される。
  前川は森丘がペレの弟子ということを知っていて起用したに違いない。「テクニカル・アプローチ」を提唱していた前川にとって、コンクリート技術の面 で森丘は信頼できる同志だった。
  国立西洋美術館以外では、日本相互銀行本店、蛇の目本社ビルなどのほか、東京都記念文化会館の3分の1の工事途中で退社のため交代したと記録されている。

 日本の近代建築史のエピソードとして、ペレの弟子の森丘四郎にも注目したいものである。  (付記 資料について、藤木忠善氏および清水建設に謝意を表します)
 
(2001年5月23日 日刊建設工業新聞「所論 諸論」より) もどる


2002.12.13

建築ジャーナリズムにおける筆名

 

 日本にル・コルビュジエを最初に紹介したエッセイの筆者は「やくしゞ朱圭」となっていた。これが大原美術館の設計者の薬師寺主計の筆名なのは明らかである。「かずえ」と正しく読まれなかったので、音読みの通 称を捩(もじ)ったものである。
 また「武羅野陶語」は説明するまでもなく「村野籐吾」の筆名であり、この有名な通 称さえ本名の藤吉の捩りであった。
 同じようなのは、ル・コルビュジエの著作の最初の日本語版『建築芸術』の訳者の「宮崎謙三」も、本名は謙二であったという。
 「葦田哲郎」と「與志田鐵郎」が吉田鉄郎の捩りであり、役人だったので個人的な設計ではこのような変名を用い、一冊の本の中で2件の住宅の設計者として別 々に並んで表記されているのは奇妙である(『現代住宅1933〜40(3)』国際建築協会41年)。

 「山口文象」は本名が山口瀧蔵、幼少時に養子先の姓に変わって、23年の創宇社の結成時には「岡村蚊象」と、極小と最大の動物を組み合わせた名で茶目っ気を発揮、30年には「瀬田作士」という筆名を用い、同年末に養子縁組みが解消して「山口蚊象」と改称、戦後は蚊が文になった。
 30年に『現代住宅建築論』を刊行した「香野雄吉」は、その後に長いこと素性が不明で謎の人物であった。最近になって拙著『巨匠への憧憬』のなかで明らかになった。京大建築学科を中退して映画の分野へ転じたので、卒業生名簿には載っていないのである。加納龍一という本名を捩って筆名にしたらしい。

 昭和初期、左翼思想が建築界にも浸透し、捩りではなく覆面 の筆名が現れた。
 代表的なのは「香川三郎」で、34年に『国際建築』誌に唯物史観の建築史を連載した。筆者の真相は、戦後に『建築史ノート』(西山夘三著 相模書房48年)のなかに収録されて明らかになった。
 西山は『新建築』誌46年7月号に、本名とこの筆名を使い分けて別々の論文を寄稿したが、読者は気づかなかったに違いない。

 ジャーナリズムにおいて編集者が筆名や略称で記事を書くことは慣習的であり、建築ジャーナリズムでも例外ではない。それらの内容は原則として情報を中心としたものである。
 50年代の『新建築』誌で編集者たちが筆名で長文の評論を載せたのは異例の珍現象であった。「岩田知夫」(川添登氏)、「葉山一夫」(平良敬一氏)、「灰地啓」(宮内嘉久氏)である。同時期に『国際建築』誌でも「澤田清」という編集者の田辺員人氏の筆名の記事が載った。
 50年代後半から『建築文化』誌に「八田利也」という筆名の記事が現れ、噂では音読みらしく、伊藤ていじ、磯崎新、川上秀光の三氏の共同筆名ということだった。
 60年代になってから出現した「中真己」は私の筆名であると本紙2000年3月15日付けで明らかにされた。思い上がった若い時代の心情から付けられたものである。丹下健三氏についての単行本の著者名にも用い、もったいないと指摘されたが、実名を出すことに執着がなかったので約24年間も続いた。
 (附記/建築界ではないが、推理作家の「飛鳥高」は島田専右氏(東大建築学科卒42年)の筆名である。 一部について赤松正子氏のご教示をいただいたので感謝します)
  (2002.12.13「日刊建設工業新聞」) もどる